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以前、2017年の気になるおせち事情 おせちは買う!予算は1万円台!!という記事でご紹介したように、日本ではお正月におせち料理を食べる習慣が根強く残っています。

と言うより、おせちがなければ新年は迎えられない、とお思いの皆さんも多いことでしょう。恐らくこの風習は、これから先も絶える事がないものと見られます。

おせちの風習

ではでは、この風習は、いつ頃・何故に誕生したのでしょうか?

よく言われるのが、お正月くらいは主婦が楽を出来るように、作り置きの利く惣菜を重箱に詰めるのだという話です。

けれど、これではまるで、主婦の手抜き料理保存食のようです。実際のおせちのイメージとは随分異なるような気がしませんか??

さらに、一家に1台は冷蔵庫があるのが当たり前。しかも、年中無休のスーパーやコンビニが定着した昨今では、あえて年末に翌年の料理を作る必要などない訳です。

加えて、食品保存用のラップやコンテナが存在する現代社会においては、重箱に詰めるというのも面倒な気がします。

そんな今や無用とも思われる風習を後生大事に日本人が守り続けるのには、きっともっともっと奥深い由緒や意味があるはず!

という事で、今回はおせち料理のいわれを見てみましょう。

おせち料理の始まり

上記の記事で明らかになったように、全国の有名料亭やホテル、そしてデパ地下グルメと、皆さん、おせちについてはド~ンと奮発される事が少なくありません。

その最大の理由は何と言っても、お正月というおめでたい時に食べる祝い食だからでしょう。

速い話、お正月だからとか、お正月くらいはという事で思い切れるという事です。

おせち料理はお節料理

ところが、元々おせち料理は年に一度の特別食ではありませんでした。

「えっ、そんな馬鹿な!!」と思われるかも知れませんが、これ、ほんとの話!その証拠に、おせち料理は漢字で書くと、お節料理となるではありませんか!!

そうなんです、実はおせち料理というのは、元々は新しい季節を迎える度に食べるものだったのです。

しかも、旧暦を使っていた頃の日本には、今のように四季ではなく、5つの季節があるとされていました。そして、その節目となる日を祝うのが節句(せっく)。

即ち、節句は年に5回やって来る訳で、これが俗に言う五節句です。そして、おせち料理も年に5回も食べられていたのです。

おせち料理を食べる五節句って?

五節句は元来、以前土用の丑の日直前企画(第2弾)そもそも土用の丑の日って?でご紹介した中国の五行説(ごぎょうせつ)に基づくものです。

しかし、奈良時代に日本に伝わると、宮中では節会(せちえ)と称し、宴会が開かれるようになりました。しかも、5つどころか、当時は多数の節句がありました。

例えば、1月だけでも、

  • 1日の元日節会(がんじつせちかい)
  • 7日の白馬節会(あおうまのせちえ)
  • 16日の踏歌節会(とうかのせちえ)

と、3つもあったと言うからビックリです。

さらに平安時代に入ると、初夏の端午節会(たんごのせちえ)と初冬の豊明節会(とよあかりのせちえ)を加えた五節会が重要視されるようになりました。

とは言え、あくまでも宮廷行事であって、一般庶民には縁遠いものだったと見られます。

おせち料理は年に一度のものではない!!

ところが、時は流れて江戸時代。江戸幕府は、そんな数ある節句の中でも、特に季節の節目となる5つをピックアップし、国民の式日と定めたのです。

選ばれたのは、

  • 1月7日の白馬の節句
  • 3月3日の上巳の節句(じょうしのせっく)
  • 5月5日の端午の節句
  • 7月7日の相撲の節句(すまひのせっく)
  • 9月9日の重陽の節句(ちょうようのせっく)

の5つ!

さらに、白馬の節句については人日の節句(じんじつのせっく)、相撲の節句については七夕の節句(たなばたのせっく)と名称が改められました。

そう、昔はひな祭りや七夕も、決して子供のお遊びではなかったのです。

そして、この節句の時に出されるごちそうが、おせち料理です。

とは言え、奈良時代のおせち料理は、単に大盛りライスであったという噂もあります。どうやら今のようなごちそうに発展していったのは、貴族社会に浸透してからではないかと見られています。

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おせち料理と重箱の関係

おせち料理が一般庶民にも認知され、食されるようになったのは、やはり江戸時代に入り、五節句が国民の式日になってからである、と見て間違いないでしょう。

特に新年を祝う人日の祝儀料理はこだわりが持たれ、それが今もなを根強く残っているという訳です。

ならば、おせちはいつ頃から今のような重詰めに変身したのでしょうか?

江戸おせち事情

確かに江戸時代に入って式日が定められ、五節句を祝う人々は急増しました。

中でもお正月は特別です。商売人たちを中心に人日のおせち料理は進化して行きました。

江戸では食積(くいつみ)と称し、歳神様にごちそうをお供えするとともに、来客たちにも振る舞うというスタイルが定着して行ったのです。

また、上方では蓬莱飾り(ほうらいかざり)、九州では手懸け盛り(てがけもり)として、同じように仏前や床の間におせち料理を飾るのが新年の習わしでした。

今でも関西や北九州では、この風習がしっかりと残っています。

特に佐賀県や長崎県の旧家では、蓬莱台(ほうらいだい)とも呼ばれる、手懸け盛りを作るのは嫁の力量の見せ所!!

先祖を敬うとともに、子孫繁栄を願う気持ちを目一杯込め、全身全霊でどこよりも立派な飾り付けに仕上げて行きます。

また、近畿地方の古い商店や料亭、酒蔵などでも同様に、古代中国にあったとされる理想郷・蓬莱山(ほうらいさん)に五穀豊穣や商売繁盛を祈願し、立派な飾り付けをします。

こんな感じです→松の内に有田の女たちは 欠かせぬ蓬莱台の飾りつけ蓬莱飾り | 酒心館

重詰めの登場

しかし、江戸時代も終盤に近付くと、人々の暮らしも徐々に豊かになっていきます。そして、沢山の煮物などを作って一部を重箱に詰めて飾るとともに、別途、家族や来客が食するための膳も用意するようになったのです。

そこで、重詰めを従来通り食積と呼び、自分たちが食べる膳をおせちと呼ぶようになりました。正しく、お節句にいただく祝い膳という訳です。

この食積とおせちの豪華2本立てというスタイルは、明治時代後半まで続き、明治34年発行の文献・東京風俗志にもしっかりと記されています。

ところが、その後日本は戦争を始め、段々お節句を祝うどころではない時代がやって来ます。

そして戦後の高度成長期に入り、ようやく息を吹き返したところに姿を現したのが、重詰めの立派なお正月料理だったという訳です。

現代風おせちの登場!

長年、おせちは各家庭で手作りするのが当たり前でした。その為、極端な話、鍋で貯蔵し、食べる際に器に盛る、膳方式で全く問題なかったものと思われます。

ところが、それを市販するとなると、持ち運びが簡易でなければなりません。加えて、見栄えも大事。そういった理由からおせち商戦に乗り出したデパ地下たちが考えたのが、重箱詰めおせちという訳!

しかも、重箱に詰めて積み重ねる事は、幸せを積み重ねるという意味を持ち、いかにも日本人受けしそうな商品だったものと思われます。

結果、今ではすっかり、おせちは重箱詰めが当たり前なら、市販品を買うのも当たり前となったという次第です。なんともビックリなお話ですね。

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