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七日正月で松が明ける関東 VS 小正月で松が明ける関西!

典型的関西人の筆者は、未だ1月15日までは松の内という思いが強いのですが、昨今では近畿地方でも、少々時代遅れの感は否めません。

これはかなり正統派のはずですが、何故に1月7日を以って松の内は明ける運びになってしまったのでしょうか?

小正月の風習

近頃では、関西でも少々陰が薄くなって来た小正月!!

でも、素朴な疑問、お正月は一体いつまでなの?(前編)で分かったように、小正月はお正月を締めくくる大切な日です。

未来を担う若者たちを大人社会へ送り出すとともに、1年間を無事に過ごすべく、きちんと神頼みをしなければならない日なのではないでしょうか?

豊作祈願&商売繁盛祈願

では、小正月にはどのような事をするべきなのでしょうか。

まずはやっぱり花正月(はなしょうがつ)を祝うのが大事でしょう。小さな丸餅や団子を柳の枝に差した餅花(もちばな)という飾り物を作り、神棚や床の間に奉ります。

これは正しく豊作や商売繁盛を祈願するものです。養蚕の盛んな地域では、あえて団子やお餅をお蚕様の繭玉そっくりに細工したりもします。これが花正月の儀です。

さらに、昔ながらの農家では、人間だけでなく、農作業の糧となる牛や馬や農機具にも無事に年越しをさせ、1つ年を取らせるのは大切な事!!

そのため、牛舎や馬小屋に注連飾りと鏡餅を飾る他、わらで鎌や鍬、臼などの農具のミニチュアを作り、神棚に奉るという道具の年越しが行われています。

無病息災祈願

加えてもう一つ、先の記事にもあるように、小正月の朝には小豆がゆを食べ、無病息災を祈願する重要なしきたりもあります。

しかも、これは農家だけでなく、市街地の公家や庄屋でも欠かす事の出来なかった、小正月の重要な行事!

つまり、七日正月には七草がゆを、小正月には小豆がゆを食べるという訳です。

ただし、小正月の小豆がゆは、七草がゆのように体調を整えるというものではありません。邪気を払い、1年間疫病から我が身を守るという意味をもっています。

なので、どちらか一方を取るのなら、是非ともこちらを取るべきでしょう。まあもっとも、どちらも大切にしたい風習ではありますが。
<七草がゆについてはこちら>→1月7日は家族みんなで七草がゆを食べよう!

何故、関東では七日正月で松が明けるのか?

そしてもう一つ、小正月には左義長(さぎちょう)やどんど焼きと呼ばれる大切な行事があります。

ところが、この左義長こそが、関東では七日正月で松が明けるという慣習を作ってしまったのです。

左義長とは?

左義長やどんど焼きとは、お正月に飾ったしめ縄や門松、書き初めなどを田畑で燃やし、その火でお餅を焼いて食べるという風習!

最後にその灰を持って帰って自宅の周りに撒くと、一年間無病息災で過ごせると言われています。

今でも東北地方を中心に、朝一番に小豆がゆで身を清め、その後に左義長の灰で自宅近辺を清めるという、万全の体制で1年間の無病息災と豊作を祈願する地域は少なくありません。

とは言え、流石に最近では街中では見掛ける事のない光景です。また、左義長という名前すら聞いた事がない人の方が圧倒的多数だろうと思われます。

突如松の内が変わった日!

ですが、江戸時代初期には、この左義長やどんど焼きが、当たり前のように街中で行なわれていました。そのため、毎年あちらこちらで火災が発生していました。

勿論、大火災になる事もあれば、大事に至らないレベルのものもあった訳ですが、幕府としては見過ごす訳には行きません。

そこで1662年1月6日、当時の徳川第4代将軍・家綱(いえつな)は、「明日1月7日をもって松飾りは一切合切片付けるように!」という通達を出しました。

しかも、その松飾りを焼却してはならないという左義長禁止令まで同時に発令したのです。

そう、この日こそが、突如として江戸の松の内が変わった日!

以来、関東では七日正月を以って松の内を終りとするという習慣が次第に定着し、今に至っているという訳です。

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で、結局お正月はいつまでなの?

という事で、お正月はいつまでなのか?という問題については、基本的には、関東では1月7日まで、関西では1月15日までと言えるでしょう。

しかし、何事においても簡略化が進む昨今、関西でも、七日正月が過ぎると、一気に松飾りの数は激減します。

特に成人の日が1月の第2月曜日に変更になった2000年以降、その傾向は高まっています。

なので、現実には、前者の七日正月までという見解が主流のようです。

幕府の力、地方にまで及ばず!

まあ江戸幕府が定めた掟(おきて)なのですから、国民が従うのは当たり前!そこは素直に関西人も妥協すべきなんじゃないの!?関東の方に言わせれば、そんなところなのかも知れません。

けれど、関西人が従わなかったのは、別に頑固だからとか、我が儘だからという訳ではなかったのです。

実は先の命令は、あくまでも江戸の町に対する条例みたいなもので、今の法令に該当するものではありませんでした。

そのため、小正月どころか、二十日正月まで今も尚、一部の地域では残っているのであります。そして、その日をもってお正月を終わりとしています。

二十日正月で、これぞ祝い納め!

二十日正月はその名の通り、1月20日の事!

流石にこの頃までお屠蘇気分を引きずっているのはどうか、という気がしないでもありません。

しかし、前編で書いたように、そもそも正月とは旧暦1月の別名です。即ち、1月一杯が正月に該当する訳です。

なので、15日もお正月なら、20日もお正月。決しておかしな話ではないのです。

そこで、昔はこの日こそがお正月最終日!江戸はさておき、全国的には新年の祝い納めをすべく、誰もが仕事を休みにしたものでした。

ちょうど今の成人の日と同じような感覚だったのでしょう。

二十日正月の祝い方

ただし、祝い納めと言っても、お祭り騒ぎをするとは限っていなかったようです。

それどころか、元旦からこの日までの お正月ならではの贅沢三昧の日々を戒める、斎戒(さいかい)の日としていたと言われています。

そこで京阪神地域では、お正月に食べた鰤の骨やお頭と野菜や大豆で作った粕汁を食べて物忌みをしたところから、骨正月頭正月などと呼ばれていました。

その一方で、常日頃から慎ましやかな生活をしていた、農村の多い岐阜県や群馬県辺りの山間部では、正に行く正月を惜しむべく最後の贅沢をする日!

フセ正月棚探しと称し、お正月用に作られたごちそうやお餅などを全て食べ尽くしたと言います。

また、漁師町の多い石川県でも、乞食正月として、全ての恵みに感謝しながら散財していたようです。

流石に今では、おせち料理が二十日正月まで残っている事はありません。

けれど、あえてこの日のために再度ごちそうを作り、神棚に供えた後、みんなで頂くというしきたりを大切にしている家もあります。

大切にしたい日本のお正月

という事で、結局のところ、お正月はいつまでかの答え。これは地域の風習、強いては個人の風習によって決まると言えそうです。

ただ、成人の日の3連休が出来たお陰で、年によっては、七日正月までに初出勤の来ない事も珍しくありません。

学校なんかは特に、始業式が10日以降というのが一般的でしょう。

そうなると、もはや「明けましておめでとう!」の挨拶が職場や学校で交わせない事になりますよね。何とも淋しいではありませんか!!

確かに、いつまでもお屠蘇気分でだらだらとか、松飾りを出しっぱなしというのは、見栄えのいいものではないでしょう。

ですが、各家庭ごとに、七日正月には七草がゆを、小正月には小豆がゆを、二十日正月には粕汁を食べて、古き良き日本のお正月を味わうのは大切なのではないでしょうか。

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