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思いやりとおせっかいは紙一重?
- 自分の大切な家族・友人を思いやり、常に笑顔が見たい。
- 知らない人が困っている状況に出くわし、役に立ちたいと思った。
- 大好きな彼氏に対し、ほんの少しでもいいから手助けがしたい。
このような、誰かを思いやりたいという気持ちの上で、起こす行動がありますね。
ですが、その思いやりも、能動的か受動的か・その個人個人の考え方・状況によって、結果が大きく異なるものとなります。
つまり、思いやりでした行動が、相手にとってはただのお節介になる事も多々あるということ。
自分は、良かれと思ったのに・・・
- 何故相手は喜んでくれないのだろう?
- どうして笑顔になってくれず、そんなそっけない態度を取るの?
このような、小さな胸の痛みを感じる瞬間を誰でも経験したことがあるでしょう。
思いやりが、受動する側にとってはただのおせっかいだった・・・ こういう出来事は日常茶飯事で、「人」である限り逃れることのできない状況です。
なぜなら、全く違う人格・考え方だからです。
おせっかいだと感じるのも、思いやりと感じるのも、十人十色。
同じ感性・同じ考え方の人など、世界中探したってどこにもいないのです。
大切な子どものためにした事がおせっかいだった?
ある母子家庭の親子がいました。
母親は、大変サプライズ好き。息子や娘が喜んでくれる顔を見る瞬間を、自身の頑張るための要としていました。
息子が好きなブランド物の洋服・娘が好みそうなアクセサリーを購入し、プレゼントすると「ママ、ありがとう!」という言葉が返ってきます。
その母親は、それを聞くことで仕事へ向かうための”ほとばしる元気”を得られるのです。それを原動力として生活していました。
ですが、子どもは成長し、好みがどんどん変化し、好きなもの・嫌いなものが大きく出てくるようになりました。
- 「ママ、何で勝手に買うの!?」
- 「それだったら、欲しいもの買って欲しかったのに。」
- 「それって、ただのお節介だよね!」
と、その思いを喜んでくれるどころか、批判される始末。
母親は、しょんぼりします。
この場合は、思いやり・親切心とは少し違いますが、子どもを想ってした行動が、ただのおせっかいとなってしまったのです。
よくある電車内での思いやり
電車内では「お年寄りや体の不自由な人には席を譲ろう」という思いやりの感情を持たなければいけないと、誰もが教わっています。これは常識的なことです。
お年寄りだけに限らず、ほんの些細な事であっても、できる範囲で困っている人に対して何かできれば、とても素晴らしいですね。
では、次に述べるパターンの思いやりをどのように感じるでしょうか?
あなたも席を譲る側・譲られる側でそれぞれの行動を考えてみてください。
電車内で思いやった気持ちを拒否されて・・・
ある女性が電車の座席に座っていた際、自分より20歳ほど年齢が上だと思われる婦人が、重そうな大荷物を抱えて立っていました。
「どうぞ。」と思いやりの気持ちを込め、女性は席を立ちました。
すると、相手の婦人は、「私、そんな年じゃないから!」と、大声で笑って言いました。しかし彼女は「お荷物凄く重そうなので・・・。私はもうすぐ降りるので、座って下さいね。」と、お願いしました。
「あら。そう?ありがとうね。」と、答えて婦人は座席に座りました。
いかがでしょうか。
婦人は女性の思いやりの心を素直に受け取ったのでしょうか。本当のところはわかりませんが、きっとそうだと解釈してもいいかと感じます。
お年寄りに対するおせっかい?
また別の日。女性は高齢の男性が電車内で立っているのを見かけました。そこで、相手を思いやったつもりで席を譲ったところ、「わしはそんな年寄りじゃないわ!」と、すごい剣幕で言い放たれてしまいました。
この場合はどうでしょうか。
席を譲った側からすれば思いやりであっても、譲られた側から見れば、ただのおせっかいになってしまっているのですね。
こんな時は少し考え方を変えてみて下さい。自分だけの視点ではなく、全く別の角度から考えてみれば、ふと気づく事柄があるかも知れません。
例えば、その老人は、もしかすると弱ってきている足腰を少しでも鍛えるために、立っていたかったのかも知れません。または、ただの強情な昔気質だったのかも知れません。当人でないとわからない気持ちでしょう。
きつく怒鳴ってはいても、心の中では「こんなわしに、思いやりの声をかけてくれて本当にありがとうな。」と、思っていたかも知れません。
その老人は、思いやりを心から感謝し受け取りながらも、ただ口下手や臆病で、自身の感情を上手く表現できない性格だったのかも知れないのです。
(関連:すすんで優しくされよう!素直に思いやりを受ける優しさ)
その場合はおせっかいにはなっていません。その思いやりは、必ず伝わっているでしょう。
思いやりとおせっかいの違いとは?
見方を、少し変えるだけで、様々な想いが見えてきます。固定観念・自分の考え方は棄てて下さい。
見方を変えて考えると、思いやりをかける気持ち・またその善意を受けとる気持ちなど、人の心の奥深い感情は、簡単に図り知れないものだと感じます。見えなかったものまで、自ずと見えてくるでしょう。
さて、思いやりの気持ちは、相手に受け取ってもらってはじめて、相手にあなたの「優しさ」を感じてもらえます。
ですが、実は真の思いやりの気持ちとは、例え相手に気持ちを受け取ってもらえなくても一切関係ないのです。
感謝の意を求めるのは、見返りを求めるために行動したという事になってしまうからです。
もしも
- 「思いやりを受け取ってもらわなければ、納得できない!イライラする!」
- 「せっかく、思いやりをかけたのに、人の好意を無駄にして何なのさ!!」
などと、腹立たしい気持ちになった場合、それは思いやりではなく、おせっかい = ただの【自己満足】です。
思いやりであっても、誰かに親切にしようとする行動は自身の欲によって行われているものです。欲であっても、誰かの役に立てば、とても素晴らしいことです。ですが、ここで相手に何か見返りを求めるのはお節介や自己満足であり、思いやりとは全く意味の違うものになるのです。
思いやりは、決して相手に気付いてもらうために行うものではありません。どんな事であろうが、自分の中で消化できる行為なのです。
だたし、ついつい相手に見返りを求めてしまう、そんな根本的な性格を変えることは容易ではありません。
ただ、それが自己満足である事にほんの少し目を向けるだけで、自分の思考や世界観が少しずつ変わってくるでしょう。
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